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​あまみず社会に関係する語録を解説します。

あまみず

 雨のこと、漢字の雨水とかかないところがポイント、もっと柔らかいイメージ。あまみずは水循環の結果として空に昇った水が雨により地上に降ってくる。あまみずは、恵みとリスクをもたらすが、私たちは上手にリスクを減らし、恵みを授かろう。稲作を中心として発展してきた我が国の文化の根底には水があり、あまみずは私たちの命の源泉であるとともに、文化の源泉でもある。

あまみず社会

 雨は天から降って海に至る。我が国では天も雨も海もアマと呼ぶ。古代から私たちの祖先は、山から海に至る水循環、水と緑の有機的な空間を意識し、人々は営み、集落を形成し、心を育てて来た。それが大幅に崩れるのが都市化であり、水管理の縦割り・分断化である。自然の地形は見えなくなり、水の循環は分からなくなった。昔の水循環を取り戻したい、山から海への緑の回廊を取り戻したい、そこで人と人が出会い語り合う社会を取り戻したい、地域の人々のその思いからこのプロジェクトは出発した。

 本来ならば流域システムと都市システムは統合され有機的に管理されることが望まれるが、明治以降それとは逆に、効率的で集中的な、単独用途目的ごとの分断・縦割り型の水管理システムが構築された。特に都市では雨水も、汚水も、上水も地下に潜っている。

 生活者は水管理システムの全体像はおろか、部分的にすらも「視えない」システムに身を置き、水管理システムへの関心や理解を呼び起こすことが難しい。無関心ゆえに、水管理の問題を社会的に顕在化させることなく縦割り・単目的システムは温存される。このシステムは水空間をさらに無機質化し、緑や生物を減少させ、水への愛着をさらに失わせるという悪循環を生んでいる。

 流域のすべての場所で水の貯留・浸透を良質な緑を増やしながら多世代が協力し、適正な技術と節度ある生活感覚に基づく,分散型の水管理が実現される地域社会を,「あまみず社会」と呼ぼう.人口減少が進み大規模施設の建設と維持管理が,大きな社会的課題となる一方,気象の激化が進む21世紀の世界において,これは不可欠のヴィジョンと言えるだろう.

​安心

 よく使われる言葉であるが、何をもって人は安心と感じるのかをよく考えてみる必要がある。あまみず社会における安心とは、災害に対する不安感が取り除かれることであり、物理的に洪水や地震からの被害が軽減され、かつ、いざ災害となった時には人と人が助け合える家庭や社会が存在することによって、心の安寧が保たれることである。日常の生活と非常時の生活がつながり、人の孤立を防ぐことが重要である。

 

多面的で重層的な仕掛け

 たとえばあまみず社会という考え方と実践を広げようとする場合、多くの人々の共感が必要である。人は様々な関心と懸念を持っており、どの事柄が人の心に響くかは人によって異なる。したがって多くの人の共感を呼び起こすためには、多面的な仕掛けと、回を重ねる重層的な仕掛けが重要である。人は回を重ねることにより、最初はふふんと思っていたことも、徐々に心に響くことも、しばしば体験するからである。あまみず社会が社会に浸透するためには、多様な世代に様々な切り口からアプローチする多面的重層的な仕掛けが必要である。

 

出会い

 はじめて会うこと。物事の始まりはすべて出会いである。「出会いをどうデザインするのか?」は地域づくりのキーである。人と人、人とモノ、人と空間様々な出会いで人の生き方や考え方は大きく影響される。多世代共創社会、実現の第一歩が出会いのデザインである。出会いを怖がらないことが大切。

 

つながり

 人間とは人の間と書くように、人と人のつながりは人として生きていく上での基本である。折角、出会ったら、それぞれつながろう。さまざまなつながりを通して、助け合い、励ましあい、思いあう。つながりを作るのに慌てる必要はないが、緩やかでいいから、いやいや、緩やかなほうがいいから緩やかにつながろう。色々な人脈を通して、新しい考え方や実装が実現できる。

ものがたり

 人びとのあいだ、人びとが生きる環境と人びとのあいだには、生きているだけでつながりが生まれる。そのつながりは、今居る人や生きものとだけではなく、今はもう居なくなってしまった人や生きもののあいだにもあり、目には見えなくても、わたしたちはその関わりの網の目の中で生きている。
 関わりの網の目の中で、出来事が起こる。その出来事も多種多様に大きなものから小さなものまでわたしたちを取り囲んでいる。
 わたしたちが、どのようなつながりと出来事のなかで生きているのか、あるいは生きてきたのか、そしてこれから生きていこうとしているのか。わたしたちはそれを、自分を中心にした「ものがたり」として語る。
 同じように、川にもものがたりがある。川は生きている。川が、どのようなつながりを何と、誰と、どうやって作ってきたのか。そしてどうして今の形になってきたのか。川にとっての関わりとできごとは、「ものがたり」として語ることができる。ただし、人の場合と異なるのは、その川の「ものがたり」は、川のある地域の人びとのあいだで、人びとの中から、いっしょに紡がれていくものである。
 さて、わたしたちはどうやって樋井川のものがたりを作れるだろうか?

 

価値余白

 細分化した目的にあわせて、一つの目的に特化したモノづくりが長く続いてきた。しかし、自然を相手にしたとき、人を相手にしたとき、社会を相手にしたとき、とたんに一つの目的に特化したものは身動きが取れなくなり、役に立たなくなる。それだけならよいほうで、なにやら別のものにダメージを与えてしまうこともある。そのため、最近では、多機能、多目的が目指されるようになってきた。しかしこれも、「はなからそのようなものとして計画する」ので、計画できなかったものにはおいそれと対処できない。価値余白は、まさにそのためにある考え方であり、実践を意味する言葉である。今は無駄かな、と思う部分を、あえてつけておく。あるいは、今は思いつかないけれど、これは何かになるかも、という直観も信じて、削らないでおく。余白を作るのである。そうすると、あとから、「あ、それ役に立つ」「ここ使える」と他に価値を見いだしたり、役割をつけたりすることが生まれて、結果として思わぬ対処ができることにつながる。そんな、あとから意味づけと価値づけができるかも、という部分を作っておくのが、価値余白である。

価値

 価値とは、人がなにかについて、これこれこういうことができるかも、とか、いいなあ、とか、だめだなあ、というときに頭の中においている概念である。人が何かを欲したり、関心を寄せたりするときに、対象となったもの(出来事からモノ、ひとまでいろいろ)がもつ意味のことを言う。価値は、評価をつける大本になる。人は知らないうちにいろいろなものを価値づけしていて、それを誰かと共有していたり、個人を超えた大きな力に影響されてその価値を自分も持っていたり、価値の間にさらに優劣をつけたりして日々過ごしている。個人の抱える価値群を形にする機会はめったにないが、就職活動にはそれが最も求められて、就職活動人たちを混乱の渦につきおとす。じつは抱えている価値はみえにくいものなのであり、それが価値の免れ得ない一側面なのである。しかし、共有したり、創出したり、いっしょに発見してみたり、そういう作業が楽しいのも、価値の特徴である。

地域知

 人には、身体を置いて生活をする場所が必要であり、多くの場合それは他の人びとと共有している。地域知は、これまでにそこに住んでいた、あるいは通っていた人びとも含めて、生活に必要だったり、あると欲求を満たされるものだったりを生み出したときの経験から多くの場合生まれてくる。地域知とは、その場所に固有の、その場所で何かをなすうえで必要になるスキルや、知恵や、知識などを含めた知と経験の体系のことである。

記憶

 記憶は生きもののようなものである。思い出したくないことなのに、急に思い出してしまって「うわ!」と真夜中に叫んでしまうことはないだろうか。時に人をさいなんでしまうこともあるが、記憶があるからこそ、人びとは他の人びととの関わりを維持できるし、自分を取り巻く環境についてもよく理解ができる。言い換えれば、自分を世界の中に位置づけることができるのは、記憶が人びとの過去、未来、現在という腑分けを可能にしながら、今まさにここにある自分を支えてくれるからである。
 個人的な記憶のみならず、社会的(集合的)記憶を持てることは人間の面白さである。直接経験していないのに、わたしたちは戦争経験の記憶を共有することができる。同じように、「昔こうだった川」の記憶も共有できる。シャコが山のように、クルマエビが山のように獲れた福岡湾の記憶は、たとえブラックタイガーしか食べたことがなくとも、「福岡湾の記憶」として共有できる。
 記憶はまた、人を動かす。ブラックタイガーしか食べたことがない子どもは、「たんまりシャコとクルマエビが食べられる」沿岸を目指して、どうやったら獲れるかな、と専門家の袖を引くこともあるかもしれない。
 かくして、記憶はこれからの未来を作る資源にもなるのである。

未来の地図

 地図を書くことは、自分がいる場所を形にすることである。誰かの地図をみているだけだとそのことはあまり感じられないが、自分で地図を書いてみると、意外に自分がいる場所を把握すらできていないことに気づく。過去の地図を見ることは、それまでに生きてきた人たちが、どんな社会と環境との関わりを作っていたのかを探索するタイムトリップである。なるほど、ここは昔砂浜だったのか、と、地名や高低差を肌で感じながら歩くともっと楽しい。ブラタモリ((c)NHK)もアースダイバー(中沢新一)も、地図をもって歩く楽しさは、いつも想像することでもあるのだと、教えてくれる。
 さて、では未来の地図とは何だろうか。未来の地図は二段階でできる。一つは、思うだけ欲望をつめこんで、「これこれこうだと自分も地域の人もきっと良い場所!」というものを空想してみることである。しかしそれをしようと思うと、意外に自分の想像力が乏しいことに残念ながら気づく。そこで出番になるのが、昔の地図と誰かの記憶、誰かの、何かのものがたりである。その場所の物理的特徴や、これまでどんなものがあったのか、とか、ついついヒントを探して過去の地図や昔の話を引っ張り出したくなるのである。これが二段階目で、むかしの地図やむかしばなしは、重大なヒントである。この過程をへると、人びとの想像力はぐっと豊かになる。
 未来の地図は、想像力を駆使して考える「これからのあなたの生きる場所」の見取り図なのである。

懐かしい未来

 温故知新とよく言うが、何のために新しくするかというと、これからの未来を作るためである。川の堰でたくさんウナギがとれた時代を懐かしみ、同じようにウナギをつかむ経験ができる場所がほしいなと考える。そのとき、人びとの頭の中に在るのは、故きを温ねたからこそ出てくる未来像である。それは昔と同じ状態を取り戻すことを意味しない。目指すのは、現在の社会の上に「価値あるもの」を再び生み出すことである。つまり、「懐かしい未来」とは、そのように、昔を振り返って、大事だな、よいな、と思ったことを、現在社会において別の形で実現しようとする、そのときのイメージである。川遊び

有機的

 有機的という言葉は、たくさんのものがお互いに複雑につながりあって、一つの全体を作っている様子を指す言葉である。また、ちょうど私たちの細胞が集まって臓器を作り、その臓器がまた集まって身体を作っているし、生態系もいろいろな生きものが集まって一つの系としての全体を作っている。生命のあるものはその様な特徴を持つことから、転じて、生き生きとしている、生命力があるような、さまざまなものがいろいろな意味合いを持って結びつきながら、といった意味合いでも使われることがある。

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